オウム真理教の元代表・麻原彰晃をはじめ、7人の死刑が執行された。地下鉄サリン事件から23年たった。
オウム真理教とは、日本の事件史においても大きな影響を与えていて、95年を堺に日本社会が変容したとまで言われるほど。オウム事件を常に追い続けていたのがドキュメンタリー作家の森達也であり、彼の映像や著作による『A』シリーズだ。当時、オウム真理教は悪とされている中で、教団の内側から取材を行っていた。
『A』シリーズからオウム真理教を振り返ってみたいと思う。
『A』シリーズとは?
ドキュメンタリー作家・森達也による作品群で、『A』『A2』は、オウム(Aum)の「A」、被写体であるオウム真理教広報部の荒木浩のイニシャル「A」。『A3』では、麻原彰晃の「A」を指している。
- 『A』…1998年製作。サリン事件後のオウム真理教を広報部副部長・荒木浩の視点から追ったドキュメンタリー映画。
- 『A2』…2001年製作。オウム真理教の後継団体アレフの広報部長となった荒木浩を軸に、元オウムのメンバーが登場する。
- 『A3』…2010年刊行。オウム裁判を傍聴をレポートを書籍として刊行。
『A』オウム真理教の内部に迫った衝撃作
当時の教団広報部長・荒木浩を主軸に置いたドキュメンタリー。オウムのすべてが悪の時代の中でオウム内部にカメラを向けた。
オウム事件を知らない人からみれば、ただの虐げられた人々のように映る。日常生活を侵食するかのようにマスコミが押し寄せてくるからだ。
マスコミの訳わからなさと言ったらない。荒木浩を道端で捕まえて、インタビュー取材を敢行しようとするのだがこの問答が、笑ってしまう。
荒木がカメラを拒否する。それに対して、「カメラが撮ってしまったらテレビに出しちゃって大丈夫ですか?」と乱暴な許諾を取ろうとする。
なのに、荒木浩は人が良すぎるのでおかしいと言いつつも、その場を強行に離れられない。それによって、ほかのテレビ局のメディアが群がる。
荒木さん、基本的に良い人なのです。カメラを向けている森さんも、彼に肩入れしていることが伝わってくる。
この作品を鑑賞する時期がオウム事件とリアルタイムに近ければ近いほど、より衝撃度は増すだろう。
ただ、オウム真理教が狂っていった根源は本作からは分からない。映るのは、オウム真理教の抜け殻だ。信者の主要人物たちはすでに姿を消した。教団内には熱狂はなく、淡々とした雰囲気が漂う。事後処理を任されたのが、若き青年荒木浩だ。
それでも感じるのは、麻原彰晃の絶大なる影響力だ。残された信者には、未だに圧倒的な存在。だれもがどこかで麻原の存在を感じている。それだけに全盛期のオウムとはいかほどのものだったのか、その狂信ぶりが伝わってくる。
「信じることで救われる」
彼らはこのような状況であるからこそ、信仰が問われると思っている。絶対的に信じれるものがある。それにより、どのような状況でも強くなれる。
本作はこれだけでは終わらない。
オウム信者に対する警察の職質の場面が映し出される。信者が職質を拒否すると、警察が近寄り「名前を言ってください」と連呼する。信者が振り切って逃げようとしたら、刑事が信者を投げ倒す。
なのに、刑事の方が笑っちゃうくらいわざとらしい倒れ方をする。コントなの??そう思ってしまうくらい奇妙なことが目の前で繰り広げられる。そして、公務執行妨害で、パトカーで信者を連れて行く。周りにいた警察も警官も当たり前のように迅速に処理してかなり手馴れてる。
そして、この映像をオウム側は弁護士に渡したいと、森達也に懇願する。なんと、森達也は映像の公開を拒否。
これには驚いた。被写体に対するスタンスを決めている。だが、人権を守るため、最終的に映像を渡すことに。
監督だって、ただの傍観者ではいられない。作品に介入することになる。予測不能で、これぞドキュメンタリーである凄み。緊迫感があった。
『A2』信者VS街の住民を描く
『A』の続編。今度は、オウムの信者たちと街の住民の関係性を映し出す。
どこへ行っても、「オウムは出て行け」と看板が立てられ、排斥行動が起こる。排斥されてしまうことで、彼らは居場所を失い、なおさら宗教を捨てられなくなる。
組織が起こした罪に対し、残された個人はどう賠償すればいいのか。もちろん解散すればいいだけの話だけれど、信者たちの権利は最低限、保障されるべきだ。
もちろん、住民たちの反応も理解できる。弁護士一家殺人、サリン事件など、想像を超えた犯罪を起こした団体なんて、近くに住んでほしくないに決まっている。ましてや、メディアはオウムが組織全員が犯罪者であると決め付けた報道を繰り返している中で受け入れる心境になりづらい。
だけど、そこですべてを同じ色で染めてはいけない。組織犯罪と個人犯罪はまた違うもの。
とはいえ、信者が塩水を飲んで吐き出す場面は、やっぱり異様に映る。夜、ゲハァって音で森さんが目覚めるのが、その場にいる感が出ていた。
信者にシンパシーを感じてきたタイミングでこういった映像を差し挟む。このバランスがすばらしいと思う。とことん、観る者を突き放し考えさせる。
上祐が格好よく思えたのもわざとそう撮っているのだろう。荒木や信者にとって、これほど心強い存在はない。
『A3』麻原裁判への問題提起
麻原裁判を傍聴した中で、オウムへの向き合い方について社会の異常さに警鐘を鳴らした一冊。
麻原は精神障害の疑いが濃厚であるにもかかわらず、精神鑑定をせずに、結局は一審のみで死刑と処した。
裁判でこの事件の全貌を探求しなければ、オウム事件は、日本社会に深い溝を残すことになる。オウム=極悪のレッテルが貼られている今、真実探求さえ、霞んでしまう。
何か変ではないか、というのが森達也の問題提起だ。
麻原という絶対権力者が、洗脳し、すべての事件を首謀したと考えるよりは、やはり本書で主張するように、教団の幹部たちなどもレセプターとしての役割を担い、相互作用によって、一連に事件を引き起こしたとするほうが説得力がある。
組織は一人の人間がコントロールできないからこそ、暴走の道を歩む。
もちろん麻原彰晃の罪は、免れることはできない。
番外編『A マスコミが報道しなかったオウムの素顔』
こちらは『A』撮影の舞台裏を書いた一冊。森達也は強力な意志があり、撮影を続けているのだと、漠然と思ってたが、とんでもない。
なんと当時、5人目の家族が産まれる前後であり、メディアの人間でなくなるかもしれない迷いを抱えながら撮影を続けていた。
映像の製作会社に所属していたが、『A』を自主的に撮影しようと決断して、フリーの立場に。つまり収入ゼロ生活に突入していた。
だから撮影中、終始、揺らいでいる。読んでいてハラハラする。
公安警察の強制逮捕の場面も、相当な逡巡があったと明かす。
それだけ孤独な中、作品が生まれたことが記されている。
オウム真理教を語る上で外せない
これらの作品群は、オウム側の特殊性を矮小化していると指摘されることもあるが、それでもオウム真理教の内側からの取材は貴重だ。オウム真理教を語る上で外せないシリーズとなっている。麻原が死刑となった今こそ、見返すべきだ。
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