本当の自分ってなんだろう?
家族といるときの自分、恋人といるときの自分、一人でいるときの自分。
では、学校でいるときの自分、会社にいるときの自分は、ウソの自分なのでしょうか?
こう考えると、本当の自分ってなんとも曖昧な概念だと思えてきます。
そこで、作家である平野啓一郎は、「分人」という概念を取り入れることを提唱します。
分人とは、人間を分けられる存在と見なすこと。そうすることで、さまざまな問題が解決されていき、霧が晴れるようになる。
これは読むことで救われる人が多くいるのではないかと思えるほど、人生観が変わる一冊でした。
個人とは?
個人とは、英語のindividualの翻訳で、一般に広まったのは明治になってから。もうこれ以上分けられないという単位を意味しています。
分人という概念は、「分けられる」ということ。個人を分けて、その下にさらに小さな単位を与えるわけですね。
個人は、西洋文化独特のもの。一神教であるキリスト教の影響もありますし、論理学の影響もあるしています。
本当の自分など存在しない
本書で示しているのは、本当の自分など存在しない、ということ。
人間には、いくもの顔がある。このことを肯定しよう。相手次第で、自然とさまざまな顔になる。
自我が1つだけで、キャラを演じ分けていると考えると、どうにも息が詰まってしまいます。分人は、相手との相互作用で生まれて、成長していくもの。相手に特化した分人が育まれていくイメージなんですね。
例えば、あなたがBさんのことを嫌いでも、AさんはBさんと大親友というパターンがありますよね。これは、あなたがAさんと一緒のときのBさんの分人を知らないからというわけです。
その人らしさは分人の構成比によって決まる
人間はいくつかの分人によって構成されています。複数の分人の構成比率によって、その人らしさが決定されるのです。
そう考えると、個性は生まれつきの、生涯不変のものではないということがわかりますよね。
あとテーマとしては、アイデンティティについては随所に記述があります。
アイデンティティの動揺は、誰もが成長のプロセスで経験する。
著者も同郷がイヤだった時期があるそうです。海外に出ると、故郷への愛着が素直に認められると言っています。
では色々な人格が現れてることになりますが、逆説的だが、顔だけは一つしかないと指摘します。あらゆる人格を統合しているのが、たった一つしかない顔というわけです。
自分とは違う人生を生きてみたい
できればいろいろな人生を生きてみたいという願望を持ったことはないでしょうか。分人主義からの見方だと以下のようになります。
不幸な分人を抱え込んでるときには、一種のリセット願望が芽生えてくる。しかしこのときこそ、私たちは慎重に、消してしまいたい、生きるのをやめたいのは、複数ある分人の中の一つの不幸な分人だと、意識しなければならない。誤って個人そのものを消したい、生きるのをやめたいと思ってしまえば、取り返しのつかないことになる。
これは小説『ある男』のテーマにまさに当てはまります。
愛とは?
分人主義からすると、愛とはなにか?
その人といるときの自分の分人が好きという状態のこと。
相手の存在が、あなた自身を愛させてくれること。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになること。
持続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相手のおかげで、それぞれが、自分自身に感じる何か特別な居心地の良さなのではないだろうか。
愛する人が亡くなるとさみしいのは、愛する人との「分人」を生きられないことが悲しいことを意味するとします。
人を殺すのが大きな罪なのも、その人の周辺、さらにその周辺へと無限に繋がる分人同士のリンクを破壊することになるから。
このあたりはものすごく説得力があるなぁと思いました。
小説の作品紹介も楽しい
あと、文化の垣根を取り払い自由に混交していく「文化多元主義」と、文化はそのままで尊重されるべき「多文化主義」との違いもおもしろかったです。
本書に出てくる小説リスト。
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