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【芸能界の闇】ジャニーズ・バーニング・よしもと・ナベプロで芸能人はなぜ干されるのか?

芸能界の闇に、光が当てられています。

ジャニーズ、バーニング、よしもと、ナベプロといった芸能事務所は、これまで強引なマネジメントをしていました。

芸能人が事務所から飛び出すのは、ひと昔前はかなりリスクのある行動でした。「干される」ことが起こる。事務所を退所した途端、まったくテレビに出られなくなるんですね。理由としては事務所からの直接的な圧力があったり、テレビの制作側が忖度をしたりということがあった。

芸能事務所にはいったいどんな構造があるのか、芸能事務所の闇がわかる本を紹介していきます。また芸能事務所の歴史についてもまとめていこうと思います。

芸能事務所の闇がわかる本

芸能事務所の歴史を知るために、濃厚な本がありますので、紹介していきます。

『芸能人はなぜ干されるのか?』

本書では、「ナベプロ」「ジャニーズ」「吉本」「バーニング」といった芸能事務所の歴史を紐解き、芸能人はなぜ干されるのか?という疑問に迫る内容です。かなり資料的な価値が高い本でありながら、グイグイ読めてしまいます。

現状の芸能界の構造を知るには必須の1冊だろうと思います。

『芸能界誕生』

「芸能界」というビジネスは、いかにして始まったのか。豊富な資料や証言をもとにして、戦後の歴史から紐解いていきます。ホントおもしろいです。

ナベプロが原点でありながら、ホリプロや田辺エージェンシーといった芸能事務所のバトルが白熱していきます。それはテレビの歴史とも重なっていくわけです。

『光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』

フォーリービスで活躍していた北公次によるジャニーズ事務所暴露本。ジャニー喜多川を少年愛にとりつかれた男だと断言しています。

なかなか内容が重い本ですが、いまのジャニーズ狂想曲を見るには、読んでおきたい内容です。

『SMAPへ―そして、すべてのジャニーズタレントへ』

僕はジャニー喜多川の愛人だった…。元・光GENJIの著者による、衝撃的な暴露本です。性的虐待、ホルモン注射、盗聴器といった刺激的な話が明かされます。

『ひとりぼっちの旅立ち』

元ジャニーズの豊川誕による暴露本。ジャニーズとして青春時代を過ごしたことで起こった栄光と苦悩とは?アイドル時代の闇が綴られています。

『ジャニーズの逆襲』

ジャニーズでの30年間で体験した真実とは?ジャニーズの少年たちはいつも明るく見えるが、なにかその目は遠くを見ている。その理由を解き明かしていきます。

芸能事務所の歴史

ここからはおすすめ本を参考にしながら、芸能事務所の歴史・芸能事務所の闇に迫っていきます。

ジャニーズ事務所の歴史

ジャニーズ事務所の歴史を見ていきましょう。

ジャニーズとメディアの関係

ジャニーズ事務所と雑誌の関係性ってわかりやすくて、『週刊女性』が反ジャニーズ路線なのは、発行元が「主婦と生活社」だから。「主婦と生活社」がスーパーボーイコンテストを主催していて、『ジュノン』にはジャニーズタレントは出なくなった経緯がありました。

男性ユニット「WaT」は、とんとん拍子に紅白出場までいきましたが、これはバーニングがジャニーズに必殺仕事人シリーズのキャスティング権を渡したから。京本政樹が動いたという話があるようです。京本政樹は小池徹平の親戚で、長男がジャニーズ事務所所属。

ジャニーズ事務所の原点はロサンゼルスにあった

ジャニーズ事務所の歴史を振り返ってみると、ジャニー喜多川はロサンゼルスで生まれました。1928年生まれ。父親は8歳で出家している僧侶で、布教のために1924年に渡米しています。ロサンゼルスの高野山米国別院の第三代主監を9年間、務めました。

日本に戻るが、米国市民権が切れないように、ジャニーとメリーはロサンゼルス市立カレッジに通います。そのとき音楽を専攻。

1950年、父が高野山米国別院にステージを設けて、美空ひばりなどが公演して、ここでジャニーは世話役を務めます。このあたりがエンタメとの接点になるわけです。

このころから才覚があったそうで、写真家を雇って、アーティストの収益になるようにブロマイドを渡していたそうです。

アイドルグループ・ジャニーズが結成

そしてジャニーは朝鮮戦争に従軍し、日本に戻ってから、アメリカ大使館で軍事援助顧問団の仕事をします。宿舎の代々木ハイツに住み、ジャニーズ少年野球団を作りました。この中から、4人を選んで、『ウェストサイド物語』を見て影響を受けて、アイドルグループ「ジャニーズ」を結成。1962年、大使館をやめます。

「ジャニーズ」は池袋の新芸能学院でレッスンしました。ナベプロ系列で、ジャニーズは人気が出たら新芸能学院を飛び出したが、宿泊料などの金銭トラブルでジャニーが訴えられる事件も…。そこでホモセクハラ問題も勃発。ジャニーズの4人を含めた15人の少年が被害にあっていたといわれています(ジャニーズ事務所側は否定)。

ジャニーズの経理にメリー就任

1967年からアメリカから戻り、四谷でスナック経営していたメリーが経理に。元フォーリーブスの北公次は暴露本を出しています。週刊文春とも裁判になったが、ホモセクハラ行為の真実性が認定された形に。

1975年、郷ひろみのバーニング移籍事件が起こります。給料が安くホモセクハラ行為もあったとされている事件です。ジャニーズが音事協に入ってなくて、この当時はまだ大きくはなかったから、郷ひろみは移籍できたそうです。

キムタク移籍騒動の顛末

木村拓哉も全盛期、待遇が悪いことから移籍に動くという噂があったそうです。待遇改善とアメとして、写真集『木村拓哉』を発売。発行元は、川島インターナショナル。親会社は川島織物で、木村の父が営業マンとして勤務していた会社でした。印税は木村に振り込まれたといわれています。2000年、工藤静香と結婚。工藤静香の事務所パープルは、バーニング系。バーニングとの太いパイプを持つことにもなりました。

元ジャニーズJr.カウアン・オカモト氏により告発

2023年4月12日、日本外国特派員協会で、元ジャニーズJr.カウアン氏による記者会見が開かれました。ジャニーさんから「合計で15~20回ほど、ジャニーさんから性的被害を受けた」と性被害を告発したのです。

合宿所での行為が生々しく報告されていて、「被害者で僕が確実に知るのは3人だけど、出入りしている100人から200人全員がそうだったと思います」と指摘します。

それでも新聞各紙とNHKはニュースにしたものの、テレビ地上波は沈黙。このまま立ち消えになるような気がしたのですが…。

BBC「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」

イギリスのBBCで、ジャニー喜多川の性被害に迫ったドキュメンタリーが放送されました。BBCのモビーン・アザー記者が日本にやってきて、取材を進めていきます。

性被害にあった元ジャニーズJr.が告発をします。15歳のころに入所。
オーディションを受けて合格し、翌週に合宿所すなわちジャニーさんの自宅に泊まることになったといいます。

しばらくすると「お風呂に入っておいでよ」と促される。お風呂を入れてくれて、上着を脱がして、ズボンに手がかかった。人形のように全身を洗ってくれたといいます。

まわりは気づいていて、戻ってきたときに…。その話をしたときに、声が詰まり、左手をあげて、涙ぐみながら話していて、いまだにトラウマになっていることがわかります。朝まで明るくなるまで、ジャニーさんにマッサージをされたという。

そして『ジャニーズのすべて少年愛の館』で告発した元ジャニーズ淳也への取材を行います。ジャニーさんがホモセクシャルで少年愛だとは周知の事実。「これが日本。わかっていながらトップ企業に祭り上げた」と言いながらも、敬意を感じさせる発言でした。

2002年ごろジャニーズにいたリュウという男性にたどり着きます。寝室でマッサージしてくれて、肩から下へきて、「これ以上はダメだよ」と伝えたら、部屋から出ていったといいます。「今でも大好きですよ」と、愛をもって接してくれたと思える存在だという。頭を抱えるジャーナリスト。グルーミングではないか?と指摘します。

レン氏、ジャニーさんが悪いとは思えなくて、受け入れる側の問題もある。「受け入れると思います」と明確に伝えていて、さらに混乱するアザー記者。

ジャニーズへ突撃訪問するものの、撮影を止められてしまいます。問題に取り組むつもりがないのか?人間性のある対応ではない、と記者は憤ります。

ジャニーズによる搾取の歴史を、日本社会が見てみぬふりをしている。
ジャニーさんが他界してもこの日本社会にも守られているといいます。
被害にあった人たちがいるのに…。それが何よりも残念なことだと。

ジャニーズの暴露の面もありますが、日本社会の異様さが突きつけられます。

藤島ジュリー景子社長が謝罪

ここから事態は変化してきて、なんとジャニーズ側からの謝罪動画が公表されました。ついにジャニーズも黙殺できない状況になっていたのです。

5月14日、創業者ジャニー喜多川からの性被害を訴えている件について、ジャニーズ事務所が動画と文書で見解を発表しました。藤島ジュリー景子社長は、動画で「創業者ジャニー喜多川の性加害問題について、世の中を大きくお騒がせしておりますことを心よりお詫び申し上げます」と謝罪しました。

さらに、5月21日は所属タレントの東山紀之が、ジャニー喜多川問題に言及し謝罪。

調査報告書が提出される

そして、外部の専門家による特別チームによって、調査報告書が提出されました。それは、ジャニーズ事務所の前社長が多数の未成年者に性加害を繰り返していたことを認めるというもの。

これを受けて、ジャニーズ事務所は2023年9月7日、記者会見を行うことに。再発防止をどうするのか、藤島社長の進退はどうなるのか、注目が集まりました。

ジャニーズ事務所が記者会見を開く

2023年9月7日午後、都内でジャニーズ事務所が記者会見を開きました。出席したのは、藤島ジュリー氏、東山紀之氏、井ノ原快彦氏、事務所の顧問弁護士の4名。

会見の冒頭、藤島ジュリー氏が発言し、ジャニー喜多川氏の性加害を認めて謝罪をしました。

新社長には東山氏が就任、藤島ジュリー氏は取締役として残留し、同社の株を100%保有している状態を継続することを明言しました。東山氏の過去のハラスメント疑惑にも度々質問が上がり、音楽番組でジャニーズ事務所のタレント以外が出演できない状況も言及されました。

4時間を超える記者会見のなかで、被害者への対応や再発防止については具体的な回答はなく、所属タレントもどのようになっていくのか不透明なまま。今後、ジャニーズ事務所の崩壊が色濃く感じられる内容で、芸能界にとって時代の大きな転換点を迎えているといえます。

ジャニーズ事務所、社名変更

2023年10月2日午後、再びジャニーズ事務所が会見を開きました。東山紀之新社長とジャニーズアイランド社長の井ノ原快彦氏らが出席。社名を「SMILE-UP.」(スマイルアップ)に変更することや、新会社の設立などを発表しました。

会見から90分を過ぎたころ、質問で指名されない記者から怒号が飛び交い、会場は騒然となりました。井ノ原氏が「落ち着いていきましょう、みなさん」となだめる場面がありました。

325人が補償を求めていることが明らかになり、補償は11月から。新会社はタレント個人やグループが個別に契約するエージェント会社となり、東山氏は「すべてジャニーズと名がつくものはなくなります」と話しました。新会社の社名は、ファンクラブから公募して決めていくことになるようです。

バーニングプロダクションの闇!干された女優とは?

バーニングプロダクションは、”芸能界のドン”と呼ばれる周防郁雄が社長を務める芸能事務所です。周防郁雄は1941年に生まれ、ハマコーの運転手や新栄プロダクションで付き人運転手に。北島三郎の運転手も務めていて、1971年に「国際プロダクション」を設立します。その後。バーニングプロダクションに改称し、郷ひろみがジャニーズから移籍したことで、有力プロダクションに。小泉今日子、藤原紀香といったタレントを輩出していきます。

周防は暴力団とのつながりが噂され、許永中との関係も示唆されている人物です。

バーニングプロダクションがすごいのは、傘下にあるプロダクションが複数あること。オスカープロモーション、レプロエンタテインメント、スウィートパワー、テンカラットなど、有名な俳優・タレントが所属している事務所が、傘下にあるんですね。

で、バーニング所属で独立後に干されてしまったのが、水野美紀です。『踊る大捜査線』のあとに活躍していたのに、ぱったりと見なくなった。バーニングの力が働いていたというわけです。

さらに、バーニングプロダクションは音楽出版権に目をつけて、利益を得ています。小室哲哉の楽曲はすべてバーニングプロダクションが保有しています。

そして、サザンオールスターズの音楽出版権の一部を、バーニングが持っているそうです。サザンの所属プロダクションは、アミューズなのに…。アミューズはサザンを売り出した当時、資金がなくてプロモート費用をバーニングに頼ったことから、いびつな状態になっているそう。

ナベプロの歴史は芸能の歴史

現在はワタナベエンターテイメントとなっている渡辺プロダクションの歴史をまとめてみます。

芸能のはじまり

進駐軍のラジオからジャズが流れていた時代。進駐軍にエンタメを提供するのは日本政府のお金から。そこに楽器弾ける人を派遣したのが、芸能事務所のはじまり。英語ができる人が求められていて、インテリな人が多かったわけです。

芸能事務所のはじまりが、オリエンタル芸能社、曲瀬家は横浜貿易商の家で、娘・曲直瀬美佐がのちのナベプロの渡辺晋と結婚することになります。

そしてサンフランシスコ条約によって進駐軍がいなくなり、芸能社の仕事がなくなります。そのとき、JTBが芸能人の斡旋も行っていました。

1950年朝鮮戦争特需で豊かになった人たちが、ジャズを聴きたいと思いはじめていました。もう少しカジュアルに聴けるのがジャズ喫茶。

銀座のジャズ喫茶が象徴的な存在で、映画とラジオがあったカルチャーの街になっていました。プレーヤーが求められて、学生で楽器できる人を「拾い」でピックしていたんですね。学生ジャズバンドのマネージャーをやっていたのが、曲直瀬美佐です。

ナベプロの始まり

ナベプロの創業者・渡辺晋は1927年、東京都帰宅滝野川で生まれました。敗戦で銀行員だった父が失業。晋は学費を稼ぐために、音楽を選びます。譜面を読めなかったが、ジャズブームが訪れると考えていたそうです。

晋は、学生バンドを率いて、ベースプレイヤー兼マネージャーとして音楽活動を始めます。拾いで、プレーヤーになっていったわけです。米軍キャンプを回り、スイングジャーナル誌でコンボ部門1位をとるほどの実力者に。

技術は人並みだが、経営者として才覚がありました。ナイトクラブの責任者の性格や趣味を調べ上げ、バックリベートを渡し、女性をあてがい、週に数回出演する専属契約を勝ち取った。移籍のオファーが舞い込み、好条件を引き出していったようです。かなり売り込みがうまい。

そして1952年、慶応大学の学生バンドマネージャーをしていた日本女子大学の美佐と業務提携。後に結婚します。

2人は東銀座てんぷら屋の2階に事務所を借りて、芸能プロダクションを始めました。バンドマンは月給制に。これが渡辺プロダクションのはじまりです。

ナベプロが勢いを盛り返す

ジャズバンドの斡旋をしてきたものの、ジャズブームが去って、ナベプロは苦しいスタートを切ります。

1958年、日劇ウェスタユカーニバルで、ナベプロは勢いを盛り返していきます。エルビス・プレスリーが流行っていたため、ロカビリーに目をつけて、日劇で興行を打ち、1週間で4万5000人もの動員に成功。このとき、ホリプロの堀威夫、田辺エージェンシーの田邉が、バンドとして登場していたんですね。このあと、ナベプロは堀威夫とたもとを分かちます。1960年、堀威夫はホリプロを設立します。

ナベプロがテレビと組む

フジテレビが、ナベプロにアプローチしてきました。

テレビ時代への対応を急ぎ、ザ・ピーナッツを育成しました。伊藤姉妹は、名古屋のレストランで歌っていたが、スカウトしてレッスンさせます。全国巡業もこなし1959年にテレビデビューするとスター街道へ。

『ザ・ヒットパレード』のディレクターはすぎやまこういちでした。晋は「ウチのタレント1年はノーギャラで使ってください」と言ったそうです。テレビが覇権をとることを想定していたわけです。『シャボン玉ホリデー』では制作スタッフは渡辺プロ。クレイジーキャッツが人気に。テレビからスターが生まれていったのです。

ナベプロが音楽業界へ

レコード業界では、原盤権取得に動き、アドバンス制度も要求して、レコード会社との立場を逆転させたということも行っています。さらに1963年、晋が音頭をとって、音事協を設立したという流れがあります。音事協は、今では100以上の芸能プロダクションが所属しています。

2002年、音事協がコアマガジンを訴えたことがあり、原因は藤原紀香らタレント14人の写真の無断使用でした。パブリシティ権(肖像権)侵害を認めた事件でもありました。

ナベプロとテレビとの確執

60年代ベトナム戦争の泥沼化があり、グループサウンズの作り物からフォークソングブームへ。

そして、日本テレビとの確執が起こります。『スター誕生!』が大ヒット。山口百恵などが誕生し、ホリプロといった芸能事務所が台頭してきました。

ナベプロは、テレビ朝日でオーディション番組を制作。同時間帯の日本テレビの番組に、ナベプロタレントを一切出さないことにして、確執が生まれました。

結果は、スター誕生の圧勝…。アグネス・チャン、森進一、沢田研二らが移籍独立して、ナベプロはゆらぎます。

吉本興業の成り立ちは?

1912年吉本吉兵衛と妻のせいが大阪の寄席・第二文芸館を買収し、経営を始めました。落語より物真似や色物主体。回転率を高めたりして経営が軌道に乗っていき、どんどん芸人を引き抜いていったそうです。1913年には、吉本興業部の看板を掲げます。1924年、吉兵衛37歳で死去。妻と妻の弟の正之助が後を継ぎます。

ラジオブームに乗り、1938年には芸人300人所帯に。戦後は映画、キャバレーなどを行い、60年代にはボウリングが売上8割の時代もあったようです。正之助の弟、弘高が社長に。笑福亭仁鶴や桂三枝が活躍し、80年に入って漫才ブームへ。

ビーイングの闇

長戸大幸は1948年滋賀県生まれ。青山学院中退後、ブティック経営しながら音楽活動をしていました。1971年プロデビュー。1975年、阿久悠事務所で作曲家として働き、1978年ビーイングを設立します。ボウイ、チューブ、BBクイーンズを手がける。ビーイングには音楽スクールがあり、自社スタジオで楽曲を安く大量生産できました。有力プロダクションから依頼があったそうで、バーニングからは中山美穂への曲提供依頼で『世界中の誰よりもきっと』が生まれました。

長戸は、坂井泉水や高樹沙耶と交際。高樹沙耶とはトラブルへ。高樹沙耶はバーニングに連なるXに相談したといわれています。長戸との話し合いが決裂し、長戸は暴行を受けることに…。東京から撤退し、エイベックスの台頭を予見。松浦がバーニングと組みます。タレント引き抜き禁止。力のある支配が必要であるため、バーニングが台頭したと言えます。

芸能人はヤクザな商売か?

海外比較もしていて、アメリカはタレント本人がエージェント、マネージャー、パブリシスト、アシスタント、弁護士を雇う仕組みです。これがいいとは言わないけれど、芸能事務所が強い時代が長すぎたなと思います。それによりかなりの弊害がある。有力タレントが、事務所を離れる流れは止まらないと思います。ここから芸能事務所の役割が問われて、正常化されることを望みます。

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