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【海に眠るダイヤモンド】どこまで実話?軍艦島(端島)の歴史背景20選(ネタバレ考察)

ドラマ『海に眠るダイヤモンド』は、神木隆之介が主演を務める日曜劇場作品です。

舞台になるのは、長崎県の端島(軍艦島)になります。

この端島(軍艦島)にはどのような歴史背景があるのでしょうか?

ドラマ『海に眠るダイヤモンド』をさらに深く楽しめるように、徹底解説していきます。

TBS系で毎週日曜よる9時から放送。

『海に眠るダイヤモンド』どこまでが実話?モデルは?

『海に眠るダイヤモンド』は軍艦島(端島)を舞台にしていて、史実をもとにしています。

時代背景は実話をもとにしています。

ただし登場人物には、明確なモデルはいません。

フィクションで過去と現代、70年にかけた物語が展開されます。

『海に眠るダイヤモンド』軍艦島(端島)の歴史背景

軍艦島(端島)の歴史背景についてまとめています。

どこにある?

軍艦島(端島)は、長崎県長崎市から西へ約18キロの海上に浮かぶ小さな島です。

長崎港から船で約40分のところに位置しており、かつて多くの人々が住み、炭鉱業で栄えました。

どのくらいの広さ?

軍艦島の面積は約6.3ヘクタールで、東京ドーム約1.3個分の大きさです。

南北に細長い形をしており、長さ約480メートル、幅約160メートルです。

軍艦島の名前の由来

軍艦島という名前は、島の形が軍艦「土佐」に似ていることから名付けられました。

実際に船のような形状で、海上から見るとまるで軍艦が浮かんでいるかのような迫力があることが特徴です。

世界一の人口密度だった

1960年(昭和35年)には島内に5,267人が暮らしており、その人口密度は当時世界一でした。

東京の9倍もの人口密度を誇り、限られた面積に多くの人々が生活していました。サッカーグラウンドほどの面積に約1000人以上が住んでいた計算になります。

「未来都市」とも称され、都市化された生活が送られていました。

豊かな生活環境と施設

島内には日用品を揃える青空市場や地下商店街、役所や病院が完備されていました。

映画館やスナックバー、パチンコ店、麻雀、ビリヤード場などの娯楽施設もありました。

さらに、屋外プールやナイター設備のある野球場も整備され、住民は島内で必要な生活とレジャーをすべて満たすことができたといいます。

住居エリアと炭鉱エリア

端島(軍艦島)は、住居エリアと炭鉱エリアに分かれていました。

炭鉱エリアは波が激しくないほうで、住宅エリアは波がはげしいほうになっていました。そのため住宅エリアは窓も小さく作られていたと言います。

このように、炭鉱の重要性が建築にも反映されていたことがわかります。

採掘は地下600メートルへ

炭鉱エリアでは「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭の採掘が行われており、竪坑櫓(たてこうやぐら)にはエレベーターが設置されていました。

これにより、地下600メートルまで降りて採掘を行っており、さらに深い1000メートル以上の場所でも石炭が掘り出されていたといいます。

日本初の鉄筋コンクリートアパート

1916年には、鉄筋コンクリートアパートが端島に建設されました。これは日本初。

居住者たちは、共同で使用するお風呂やトイレ、洗濯場が備わった長屋形式の住居に住んでいました。

屋上は交流の場として使用され、住民同士が触れ合う場所となっていました。

急勾配の地獄段

軍艦島で2番目に建設された「日給社宅」の建物の横には、急勾配の33段の階段があります。

この階段は「地獄段」と呼ばれ、集合住宅の4階まで続いており、約30度の急な斜面を登ることからその名が付けられました。

ドラマではレナ(池田エライザ)が、端島音頭を歌っていたのが、地獄段になります。

海底水道管

端島(軍艦島)では、真水が不足していたため、節水生活が必須でした。住民たちは海水で汚れを落とし、限られた真水を大切に使用していました。貴重な水資源を大切に使う生活が続いていたそうです。

長崎本土から6.5キロにわたる海底水道管が開通されたことで、水は豊富になりました。

電化が進んでいた

島内の発電所があり、電化が進んでいました。

さらに海底に電線を通して、3キロ離れた高島で造られた電気を送電していました。

家電の普及率100%

家庭にはテレビ、洗濯機、冷蔵庫といった「三種の神器」がほぼ100%普及していました。

当時の一般的な普及率は、白黒テレビ7.8%、洗濯機20.2%、冷蔵2.8%です。

月給はどのくらい?

端島(軍艦島)での労働者の月給は、本土の新卒給与の約4倍にあたる20万円ほどでした。

さらに、家賃がほぼ無料であったことも住民にとって大きな魅力でした。

端島(軍艦島)に人が集まっていた理由でもあります。

学校はどうなっていたのか?

島内には小学校と中学校が併設された7階建ての校舎がありました。

1階から4階までが小学校、5階と7階が中学校。6階には、体育館や図書室、音楽室も備わっていました。

自然体験が少ないため、子供たちは屋上で農園実習などで自然に触れる機会も提供されていたようです。

共同体としての生活

端島(軍艦島)の住民たちは、家賃がほぼ無料である代わりに強い共同体意識を持って生活していました。

家族のように助け合い、島全体が運命共同体としての雰囲気があったそうです。

労働の過酷さ

端島(軍艦島)での労働は非常に過酷でした。過労から島を脱出しようとする人もいたといいます。

地下では24時間体制での作業が行われ、三交代制で0時から8時、8時から16時、16時から0時まで働き続けていました。

炭鉱内部は温度35度、湿度80%を超える環境で、弁当がすぐに腐ってしまうほどの厳しい労働環境でした。

産業革命

端島(軍艦島)は製鉄、造船、石炭産業が集結しており、日本の産業革命に貢献してきました。

長崎製鉄所、三菱造船所、高島炭鉱といった産業施設とともに、日本の経済発展を支える一翼を担っていたのです。

先駆的な建築

フランスの建築家ル・コルビュジェが提唱した「ドミノ理論」があります。

それに先んじて柱、床、階段の構造で、端島は建築されていて、先進的な作り方をしていたのです。

閉山式

1974年、エネルギー革命の影響により石炭の需要が減少し、端島炭鉱は閉山しました。

閉山式では、三菱石炭鉱業の社長が「天寿を全うした」と述べ、島の歴史に幕を下ろしました。

労働組合長も「誇りを持って新しい職場に向かおう」と従業員を激励したと言います。

世界遺産になった端島

端島(軍艦島)の閉山後、再開発が試みられたものの多額の投資が必要で、進展しないまま無人島となりました。

しかし、現在では歴史的価値が見直され、2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産に登録され、観光地として再び注目を集めています。

『海に眠るダイヤモンド』さらに楽しみために

時代背景を踏まえておくと、『海に眠るダイヤモンド』のセットや演出の巧みさを感じることができます。

特殊環境で時代に翻弄された端島(軍艦島)には、たくさんの学びがあります。

ぜひいろいろと調べてみてほしいと思います!

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