MENU

【べらぼう】蔦屋重三郎について5分で解説!100倍楽しむ大河ドラマ

大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』は、横浜流星主演で、江戸時代の蔦屋重三郎を描きます!

大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』について、あらすじ・ネタバレありで解説していきます。

目次

蔦屋重三郎の生涯を解説

蔦屋重三郎はどういった生涯だったのか、12のトピックで解説します。

蔦屋重三郎はどんな人?

蔦屋重三郎は、吉原再興を夢みて出版業で成り上がる“江戸のメディア王”。

あだ名は蔦重。幼くして両親と生き別れ、引手茶屋「駿河屋」の養子になります。

義兄の営む茶屋「蔦屋」の片手間に、貸本屋をしていましたが、 「吉原を再び江戸っ子が憧れる場所にしたい」という思いから本の編集・出版業を始めます。

そこから多彩な文人との交流のもと、ヒット作を連発。

江戸の出版王へと成り上がり、歌磨や写楽といった浮世絵の大スターを見出しました。

どんな時代背景だったのか?

18世紀の江戸は、経済・商業政策によって活況を呈していました。

幕府の最高実力者である老 中・田沼意次の積極的な政策のおかげです。

自由な雰囲気と改革の機運がみなぎる江戸で、人々は伝統にとらわれない新たな文化の創造にチャレンジします。その代表者が蔦屋重三郎です。

どんな幼少期だった?

蔦重は1750年、江戸・吉原で、丸山重助(まるやまじゅうすけ)と広瀬津与(ひろせつよ)の間に生まれました。

本名は柯理(からまる)といいます。

7歳の時、両親が離別。重三郎は喜多川家が経営する商家・蔦屋の養子となります。

これが重三郎の屋号となりました。

蔦屋の仕事は不明ですが、遊客のための飲食業である茶屋を営んでいたと考えられています。

20代で出版業界へ

蔦重が出版界に登場するのは1772年、23歳の時です。

吉原の、唯一の出入口である大門の外側に耕書堂(こうしょどう)という書店を開きました。

最初 は、鱗形屋孫兵衛(うろこがたや まごべえ)を版元(出版社)とする「吉原細見」という遊女のガイドブック の販売などを行っていたが、やがて自ら出版も手がけるようになります。

はじめての書物「一目千本」

記念すべき最初の書物が「一目千本(ひとめせんぼん)」 でした。

遊女を当時流行した挿花(生け花)に見立てて紹介する絵本形式の書物です。

ただし、店頭販売ではなく、遊客への贈答品として、吉原から注文を受けて作られたと考えられています。

いわば、吉原の広告媒体であり、売れ残りの心配のない手堅い仕事でした。蔦重はハイリターンをねらう投機的な人ではなく、しごく堅実な実業家でした。

吉原細見

さらに1775年からは自ら「吉原細見」は販売にふみきります。

この年、鱗形屋が法令違反により幕府の処罰をう け、「吉原細見」を出版できなくなっ たすきをつきました。

蔦重版「吉原細見」には、新機軸も盛り込まれました。

遊女屋(ゆうじょや)を探しやすいようにレイアウトを変えて、拡大してページ数を減 らし、コスト減を図ったのです。

挿絵は浮世絵師の勝川春章(かつかわしゅんしょう)が手がけていました。

見やすく 安価な重版は鱗形屋版を圧倒して、蔦屋を支える主力商品となる。

出版界に革命を起こす

その後、蔦重は出版界に革命を起こしていきます。

寺子屋の教科書である住来物(おうらいもの)、当時人気を博した黄表紙(大人向けの絵入り小説)や、酒落本(会話主体の小説)などを次々と刊行していきます

これらの小説やその 挿絵の手がけたのが、一流の文化人でした

作者兼絵師の朋誠堂 喜三二(ほうせいどう きさんじ)や恋川春町(こいかわ はるまち)、 文人・狂歌師の大田南畝(おおた なんぽ)、浮世絵師の北尾重政(きたおしげまさ)、新進気鋭の絵・文人である山東京伝(さんとう きょうでん)。

駆け出しの版元としては異例のことでした

稀代のヒットメーカー

蔦重の勢いは止まりません。

 1783年、吉原を出て日本橋の店を買い取ります。地本問屋(大衆的な読み物を扱う書店兼版元)として新たなスタートを切りました。わずか10年で江戸の経済・文化の中心地である日本橋に出店したのは、画期的なことでした。

狂歌本も手掛けました。狂歌は、和歌の形式で風刺や滑稽な内容を含む文芸で、下級武士や裕福な町人の間でブームとなっていました。

狂歌・黄表紙の大家である大田南畝を選者として、狂歌本を次々と出版。自らも蔦唐丸(つたのからまる)の名で狂歌を詠み、狂歌会を催すなど、天明狂歌のムーブメントをけん引しました。

さらに、狂歌本に挿絵をそえた狂歌絵本を考案してヒット。

これらの挿絵を描いたのが、絵師の北尾重政、若き日の喜多川歌麿でした。

美人画の新境地

カラーの浮世絵「錦絵」の市場に参入します。

当時、美人画といえば、美人の全身と江戸名所を描いた鳥居清長でした。これに対し蔦重は、人物の上半身をクローズアップし、顔の表情や指などを写する「大首絵(おおくびえ)」を歌麿に描かせました。

巧みなブロデュースにより大首絵は大ヒットとなり、歌麿は美人画のトップに立ちました。

政治の逆風が吹く

しかし、1786年に目沼意次が失脚 し、松平定信の寛政の 改革が始まります。

蔦重の周囲には逆風が吹き始めます。松平定信の質素・倹約・言論統制などの諸政策により、社会には急速に閉塞感が立ち込めます。

蔦重をはじめ、お抱えの文人 たちも弾圧を受けて活動自粛に追い込まれました。

写楽が一世風靡した

路線変更を迫られた蔦重は、錦絵の拡充に活路を見出します。

そして無名の東洲斎写楽に、役者絵を描かせて一斉を風靡しました。

また曲亭馬琴や十返舎一九らを見出して将来に期待をかけました。

この世を去る

1797年、蔦屋重三郎は脚気によって、この世を去ります。48歳でした。

蔦屋重三郎は江戸時代のメディア王

蔦屋重三郎は、江戸時代のメディア王でした。クリエイターの強みを活かしながら、どうすれば売れるのか、ビジネス才覚もあったのです。

さらに多くの人に好かれる人物でもあったようです。だからこそ、たくさんの文化人が集まり、後世に残る作品が生み出されたのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

はじめまして、管理人のKです。2016年にブログを開設して、好きな本や映画、ドラマのことを書いてきました。エンタメ情報を中心に投稿していきます!

コメント

コメントする

目次